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『雪の轍』を観て。

トルコ映画 2010年代の映画

 今日、『雪の轍』を観た。2014年にカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した作品であることをGEOで見、興味をそそられて借りた。

 3時間15分を超える映画。物語はカッパドキアでホテルを経営するアイドゥンと、その土地に住む人々やホテルの滞在者との対話によって展開していく。基本的に対話は長い。体感的には20分以上話し続けていたシーンもあったぐらい。ほとんどの対話では、対話者が移動しないため、鑑賞者は変わり映えのない映像を見ることになる。ただただ対話を聞き続ける。カッパドキアの風景や、自然と半ば同化している村の家屋、雑然としているが洒落た室内に目は引かれるものの、ここまで長い対話を聞かされては映像を楽しんで時間を潰すことはできない。とにかく対話を聞くことに集中させられる映画である。

 さて、ではどんな対話なのか? トピックは様々だ。具体的で生活に根ざしたものもあれば、抽象的で難解なものも。なので一言で表すのは出来ない。ただ、それらの対話の重要なものは、意見の対立による「議論」になっているように思える。各々があるトピックに対して各々の主張を発し、それらが異なり、かつ物事を進めるにあたってそれらが共存不可能であるため、議論になっていく。しかし、これらの議論は平行線を辿る。互いが一歩も引かないため、調停されることはない。意見の対立が起こった後は、たぶん一度も議論が綺麗に終わらなかった。ダイアローグがモノローグに収束するどころか、それぞれの主張の差異だけが色濃く浮かび上がる。多用な主張、生き方が描かれているが、○○が正しい、という描かれ方はしていない。この映画は「意識的な」悪を描いていない。つまり悪意を描いていない。相手に対する配慮に欠けた言動はあるけれども、それは悪意ではないように見える。それに加えて、登場人物たちがそれぞれ矛盾して(しまって)いる。それは、自分の主張と行動との矛盾である。彼(女)らはあるトピックに対して、こうすべきだ、と語る。しかし、その語りの内容は、彼(女)たち自身の別の行動と不和が生じているのだ。

 アイドゥンは妻ニハルの自由を尊重すると語りつつも、ニハルの自発的な慈善事業に口出しすることで前向きな気持ちを減退させ、結果的にニハルの自由を損ねる。妻ニハルは慈善事業を真面目に行うも、その対象であるイスマイルの内面への配慮を欠いた行動によってイスマイルに寄付金を燃やさせ、弱者の救済に失敗する。アイドゥンの妹ネジラは他人の悪しき行いに抗わず赦すことの重要性を説きつつも、アイドゥンやニハルが犯す「悪しき」行為を彼(女)たちに指摘せずにはいられない。

 このような登場人物の言葉と行動の不和は、別の登場人物によって指摘されるのであるが、指摘された者はそれを受け入れない。ただただ相手を批判することに終始するのである。あまりにも議論が不毛なため辟易することもあるのだが、それゆえこの物語がどのように決着するのか興味深かった。物語の決着はアイドゥンとニハルの関係性の変化で締めくくられる。

 僕はアイドゥンが大嫌いだ。実際にこのような人物に虐げられた経験がある。僕のアイドゥンに対する評は、妻ニハルが彼に向けて語ったこととほとんど同じである。妻ニハルは、夫アイドゥンにアイドゥン自身の罪が何かと問われる。雑に言うと、お前は俺の何が嫌なんだ、と聞かれる。彼女はこう語る。

そうね。あなたは教養があり、誠実で、公平で良心的よ。そういう人なのは否定しない。でも時々、その美点を利用して人を窒息させ、踏みつけ、辱める。高潔さゆえに世の中を嫌悪する。信じる人を嫌う。信じることは未熟で無知な証だから。でも信じない人も嫌い。信念と理想の欠如だから。年寄りも嫌い。偏狭で発想が自由じゃないから。若者は発想が自由で嫌い。伝統も捨ててしまうから。人は国に貢献すべきだと言いながら、人を見れば泥棒か強盗だと疑ってかかる。つまり人間が嫌い。一人残らず嫌い(…)。

アイドゥンは知的かつ経験豊かであるが故に、周りの人間の「愚かさ」に辟易しているのだと思う。こうすればお前の目的を果たせるのになぜしない、と「教養」に基づいた「誠実」で「公平」で「良心的」な批判をする。彼の批判は理論的に正しいように思える。しかし、その正しい批判はあくまでも理論上の話であり、地に足がついていないため実行が難しい。それゆえ、その批判を受けた者は「窒息」、つまり主張のあまりの正しさに動きを制限され、苦しくなる。最終的に無能力を恥じ入る、つまり「辱め」られるのだ。彼の正しく厳しい批判を逃れられる者はいない、とニハルは考える。「信じる」人も「信じない人」も、「年寄り」も「若者」も、全てが彼の批判の対象になるだろう、と。それゆえ、ニハルはアイドゥンを「人間が嫌い」と見なす。アイドゥンは理念的な正しさに溺れ、現実に対処できないのだ。

 このニハルの批判を、「うんうん、いるよねこういう奴」と頷きながら観ていた。で、僕にとって、そんなアイドゥンが最後どうなるのかが興味深かったのだ。こんな人物が無条件に肯定されるわけないだろう。改心するはずだが、どういう風に変わるのだろう? 変わるならばその契機は何か? こんなことを考えながら観ていた。

 結論を言えば、一応改心した。なぜ「一応」と書いたのかと言うと、アイドゥンは心中で反省し、心中でニハルに許しを乞うだけだから。確かにアイドゥンの内面は物語の開始時点から変化したのであるが、それが物語中盤に生じた二人の関係性の悪化を改善させていない。あくまでも「心中」の変化であるため、ニハルがそれを聞き、許したり許さなかったり、ができないのだ。冒頭から際限なく繰り返される主張の応酬は、最終盤に至っても調停されない。『雪の轍』は、それぞれの異なる共存不可能な主張が劇的な出来事を経て調停される物語ではなく、調停される可能性を仄めかす物語だと思う。このエンディングをどう見るか…。

 今のところ、エンディングに関しては特にコメントがない。どう評価したもんか。難しい。

 ちなみに、アイドゥンの内面の変化の契機は明示されていない。最も重要なのは動物のシーンだと思ってるが、こちらも省く。疲れた。馬と兎である。


メモ:リンクレイターの映画との類似点と相違点、『クラッシュ』との類似点と相違点

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