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『神々のたそがれ』を観て。

数日前ではあるが、SF映画の『神々のたそがれ』を観た。これまたgeoでフィーチャーされていたので思わず借りてしまった。んで、借りた後に小島監督のヒデチューのランキングでランクインしているのを知った。「昔のSFはぐろい描写がたくさんあったんだ」と話されていた記憶がある。

まさに小島さんの仰る通りだった。とても汚らしい映像がわんさか。糞尿、吐しゃ物、尻、性器、便器などなど。繰り広げられる会話も臭いに関するものばかり。なぜこんな描写ばかりなのかというと、SF映画ということで地球とは異なる惑星の話であるのだが、その惑星の文明レベルが中世ヨーロッパのそれなのである。衛生意識が現代より遅れており、それをリアルに描いているのだろう。この星にとって汚いのが普通であるならば、会話に関して「臭さ」が強調されないのではないか、とも思ったが。

ただ救いはある。それはモノクロ映像であることだ。これがカラーであってみろ。恐ろしいことになる。

さて、この映画はVRで観たいと思った。なぜなら、この映画は(おそらく)地球から調査・観察のためにやってきた観察者の視点によって物語が進むからである。基本的には、同じく観察者である主人公ドン・ルマータを追い、彼と彼が調査する王国アルカナルの国民たちとのやり取りを描いている。そして、それは多くの長回しの連続によって構成されているのだ。ルマータは敷地内をゆっくりと歩き回り、遭遇する人物たちとコミュニケーションをとる。その切れ目のない一連の視点をVRで観てみたい。その体験に中世へのタイムスリップを予感してしまう。

こういう作品はいくつかある。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』、『ハードコア・ヘンリー』、『クローバーフィールド/HAKAISHA』などがそうだ。それぞれの何を楽しみにしているかは書かないが、これらの映画の視点は特徴的なので、是非VRで体験したい(一番『神々のたそがれ』のカメラワークに似ているのは、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』かな)。

では物語について。あまり覚えていないけど、かなり雑なあらすじを書く。

地球から調査のためにある惑星に訪れる観察者たち。彼ら(の一部?)はアルカナルという王国の調査を開始する。彼らの内の一人はアルカナルの地においてドン・ルマータと名乗り(あるいは命名され?)、アルカナルにいくつかある領の首領として、アルカナルで横行している知識人狩りに抵抗する。ルマータは知識人狩りを行う組織から命を狙われるも、その弁舌によって難を逃れる。しかし、(紆余曲折あり)恋人であるアリを殺される事態になり、その復讐として、殺害者たちを虐殺するのである。...

こんな感じである。で、この映画を観て思い出したのは、文化人類学者の参与観察である。参与観察とは、文化が「劣っている」地に訪れ、その地に住む人々の生活に溶け込み、その文化を調査・観察する行為だ(たぶん)。ただ、ルマータは調査・観察の域を超えている。自らがドン(首領)となり、積極的に調査対象の文化に干渉しているからだ。かつて自分たちが通った道である中世から文明開化が起こる流れをアルカナルに経験させようとする西洋人の傲慢さをルマータの行動に見ることができよう。事実、彼は虐殺した後、「神になることは辛い」と語り、自身を神と称している。傲慢以外の何者でもない。

ああ、時間がないのでここまで。

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『イワン雷帝』を観て。

名前をちょくちょく聞いていた映画。エイゼンシュテインの映画である。彼の映画は『戦艦ポチョムキン』だけを観たことがある。モンタージュ理論で有名な人だ。ただ彼の論文を読んだことはない。この際だから書きながらちょっと勉強してみる。『<逆引き>世界映画史!』のエイゼンシュティンのページをパラパラ。

 気になる点をいくつか。

エイゼンシュティンは二〇年代のロシアで集中的に理論化が推し進められた編集技法「モンタージュ」の確立に最大の貢献を果たし、彼の業績は映画史の隅々にまで浸透している。

理論化っつーのは、目の前で揺蕩んでいる諸現象に規則性を見出してカチッと固定させること、みたいな理解をしている。20年代以前僕たちが現在モンタージュと名指している現象を含む映画はたくさんあったはずだから、それらを理論化するのに最も貢献した人なんだね。

映画理論の重要論文「アトラクションのモンタージュ」(23)で彼はまず観客の反応を物語の筋立てではなく、表現形式との関係から捉え直す。そして情緒的刺激を与えるべく計画的にショットを配置することで観客の心理を引き付け、彼らの中に監督自ら意図した思想や観念を直接創造できると考えた。

内容としての物語と、その内容を伝える形式としてのモンタージュ。この2つの要素があり、後者と「観客の反応」の関係を研究したと。んで、興味深いのは、モンタージュを駆使すれば観客「の中に監督自ら意図した思想や観念を直接創造できると考えた」こと。つまり、洗脳みたいな話。彼がどこまで政治的な意図があって映画を撮っていたかは分からないけど、僕が観た『戦艦ポチョムキン』と『イワン雷帝』はどちらも実話ベースの物語だから、ソ連のナショナル・アイデンティティーに強く影響を与えうる。どうしてもプロパガンダという単語を思い浮かべてしまう。物語の内容においても、『戦艦ポチョムキン』では虐げれている水兵、『イワン雷帝』ではイヴァン4世をそれぞれ肯定してる勧善懲悪の内容である。物語を勧善懲悪にすることで、鑑賞者が共感する対象をぶれさせなくすることができるだろう。

また「音」もモンタージュを構成する重要な要素であり、それは「垂直のモンタージュ」に最もよく表れている。

「垂直のモンタージュ」というのは用語なのか、論文なのか分からないけど、要チェック!


 んで、『イワン雷帝』について。

 まあプロットについては面白くなかった。史実を知っていれば「史実」とその表現方法や、「史実」と『イワン雷帝』の物語との差異に目を向けられたのだけど、いかんせん無知。

 しかし興味深かった点はいくつかある。ショットとショットの移り変わりは激しいのだが、ショット内の動きは乏しかった。全体的に動きがゆっくり。何かの動きが素早くなれば、同じショットに映っている他の物体は動かない。もしかしたら、これはエイゼンシュテインの戦略なのかもしれない。というのは、基本的に人間は動くものに目を奪われるので、同一ショット内に動いているものが1つならば、無意識的にそれを目で追ってしまう。多様な見方を許さない作りにあえてしているのかもしれない。

 あと、睨みや強面が映る映像が多かった。その際のクローズアップ?も印象的。 f:id:araia88:20161229220124p:plainf:id:araia88:20161229220130p:plain

 こんな感じで。

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『ヴィジット』を観て。

 さあさあ苦手なホラー映画を観た。GEOで準新作が半額で借りれるチケットを持っていたので、あんまり深く考えずに借りたんだ。ただ、少し前に見た小島秀夫監督のYouTubeの番組(確か「ヒデチュー」)で、小島監督が褒めていたな。あれがたぶん僕の頭の中に薄ら残っていたんだと思う。あと、『ヴィジット』の監督は、『シックス・センス』を撮ったシャマラン監督。そういうのも関係してるんだろうな。

 さて、内容だけど、『シックス・センス』で最後に驚かされたので、そういう仕掛けを楽しみにしていた。また、予告編などで、主役の少年少女が訪問先の家主から3つのルール(「楽しい時間を過ごすこと」、「好きなものは遠慮なく食べること」、「夜9時半以降は部屋から絶対に出ないこと」)*1が提示されているような映像を事前に観ていたので、その要素がラストのどんでん返しに関係するのかな、と思っていた。しかし、そういう驚きはあまりなかったな。肝心のルールに関しても、お爺さんお婆さんから、軽く提示されただけで、あまり重要な要素ではなかった。(何か意味があったのかな?

 物語の映像は、祖父母の家に滞在することになった二人の子どもたちのビデオカメラで撮られたものである。つまり、物語外からではなく、あくまでも物語内の視点を鑑賞者は共有することになる。かの有名な『パラノーマル・アクティヴィティ』シリーズや『クローバーフィールド/HAKAISHA』と同じ手法である。(こういう手法で撮られた映画の呼び名ってあるのだろうか?)『パラ~』や『クロ~』はカメラマンたちが大学生や大人?だったのに対し、『ヴィジット』は10歳前後のコミカルな子どもたち。おふざけがたくさんカメラに映されて、なんだかあまりホラー映画を観ている雰囲気にならなかった。ただ、最初に登場したときのお婆さんの「心ここにあらず」な感じとか、姉ベッカによるお婆さんへのインタビューにおけるお婆さんの情緒不安定さは良かった。それ自体はあまり怖くないんだけど、これから起こるであろう恐怖への絶妙なスパイスになっている。

 ただ、肝心のホラー・シーンはあまり良くなかったな。大抵のホラー映画はゾクゾクさせる怖さというより、ビクッとさせるものばかり。『ヴィジット』もそういう類だった。この「ゾクゾク」と「ビクッ」はどういう風に生み出されるのかというと、たぶん、それは恐怖の対象が画面に映っているか、映っていないかの違いなんじゃないかと思った。「ゾクゾク」で僕が思い出すのは、『シャイニング』のとあるシーン。父ジャックが豹変した後、母ウェンディはジャックから逃げつつ、だだっ広いフロアにぽつんと配置された机に近づく。その机にはジャックが冬期休暇の間ずっと書き続けてきた何十枚もの原稿が置かれている。ウェンディがその原稿を手に取り読むと、そこには同じ文が連続で書き連ねてあった。実はジャックは豹変する前から、毎日毎日同じ文を延々と書き続けていたことが発覚する。そんなシーンである。この場合、恐怖の対象は原稿の文それ自体ではない。いや、確かにそれは怖いんだけど、それ以上に怖いのは、「毎日毎日同じ文を延々と書き続けていたこと」という、その瞬間にはカメラに映っていない行為なんだよね。そう考えると、先ほど僕が述べた、「お婆さんの『心ここにあらず』な感じ」とか「お婆さんの情緒不安定さ」は「ゾクッ」とさせるものなのかも。『シャイニング』との違いは、『シャイニング』は恐怖の対象が過去にあり、『ヴィジット』は未来にある(であろう)こと。

 まあしかし、そういう光るシーンはありつつも、基本的にはあまり楽しめなかった。やはり肝心な部分では恐怖の対象が画面内に映されてしまうから。この点に関しては、もっと工夫できたのではないだろうかと考えた。肝心な部分でも恐怖の対象を画面外に追いやることができたのではないか、と思ってしまう。というのは、物語の映像は、物語内のビデオカメラの映像であるため、展開次第ではそのカメラに恐怖の対象を映させなくすることができるはずだからだ。襲われてカメラが落とされ、カメラが虚空を撮り続ける。映像は変わらないが、子どもの悲鳴だけが木霊する…などそんな感じだ。なんか怖そう。実際そんなシーンもあったのかもしれないが、お爺さんお婆さんのエキセントリックな動きばかりが記憶に残っている。恐怖の対象を画面外に押しやることに集中したホラー映画を観てみたいな。

ちょっとラフに書いてみた。気楽。

*1:Wikipediaより。

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『雪の轍』を観て。

 今日、『雪の轍』を観た。2014年にカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した作品であることをGEOで見、興味をそそられて借りた。

 3時間15分を超える映画。物語はカッパドキアでホテルを経営するアイドゥンと、その土地に住む人々やホテルの滞在者との対話によって展開していく。基本的に対話は長い。体感的には20分以上話し続けていたシーンもあったぐらい。ほとんどの対話では、対話者が移動しないため、鑑賞者は変わり映えのない映像を見ることになる。ただただ対話を聞き続ける。カッパドキアの風景や、自然と半ば同化している村の家屋、雑然としているが洒落た室内に目は引かれるものの、ここまで長い対話を聞かされては映像を楽しんで時間を潰すことはできない。とにかく対話を聞くことに集中させられる映画である。

 さて、ではどんな対話なのか? トピックは様々だ。具体的で生活に根ざしたものもあれば、抽象的で難解なものも。なので一言で表すのは出来ない。ただ、それらの対話の重要なものは、意見の対立による「議論」になっているように思える。各々があるトピックに対して各々の主張を発し、それらが異なり、かつ物事を進めるにあたってそれらが共存不可能であるため、議論になっていく。しかし、これらの議論は平行線を辿る。互いが一歩も引かないため、調停されることはない。意見の対立が起こった後は、たぶん一度も議論が綺麗に終わらなかった。ダイアローグがモノローグに収束するどころか、それぞれの主張の差異だけが色濃く浮かび上がる。多用な主張、生き方が描かれているが、○○が正しい、という描かれ方はしていない。この映画は「意識的な」悪を描いていない。つまり悪意を描いていない。相手に対する配慮に欠けた言動はあるけれども、それは悪意ではないように見える。それに加えて、登場人物たちがそれぞれ矛盾して(しまって)いる。それは、自分の主張と行動との矛盾である。彼(女)らはあるトピックに対して、こうすべきだ、と語る。しかし、その語りの内容は、彼(女)たち自身の別の行動と不和が生じているのだ。

 アイドゥンは妻ニハルの自由を尊重すると語りつつも、ニハルの自発的な慈善事業に口出しすることで前向きな気持ちを減退させ、結果的にニハルの自由を損ねる。妻ニハルは慈善事業を真面目に行うも、その対象であるイスマイルの内面への配慮を欠いた行動によってイスマイルに寄付金を燃やさせ、弱者の救済に失敗する。アイドゥンの妹ネジラは他人の悪しき行いに抗わず赦すことの重要性を説きつつも、アイドゥンやニハルが犯す「悪しき」行為を彼(女)たちに指摘せずにはいられない。

 このような登場人物の言葉と行動の不和は、別の登場人物によって指摘されるのであるが、指摘された者はそれを受け入れない。ただただ相手を批判することに終始するのである。あまりにも議論が不毛なため辟易することもあるのだが、それゆえこの物語がどのように決着するのか興味深かった。物語の決着はアイドゥンとニハルの関係性の変化で締めくくられる。

 僕はアイドゥンが大嫌いだ。実際にこのような人物に虐げられた経験がある。僕のアイドゥンに対する評は、妻ニハルが彼に向けて語ったこととほとんど同じである。妻ニハルは、夫アイドゥンにアイドゥン自身の罪が何かと問われる。雑に言うと、お前は俺の何が嫌なんだ、と聞かれる。彼女はこう語る。

そうね。あなたは教養があり、誠実で、公平で良心的よ。そういう人なのは否定しない。でも時々、その美点を利用して人を窒息させ、踏みつけ、辱める。高潔さゆえに世の中を嫌悪する。信じる人を嫌う。信じることは未熟で無知な証だから。でも信じない人も嫌い。信念と理想の欠如だから。年寄りも嫌い。偏狭で発想が自由じゃないから。若者は発想が自由で嫌い。伝統も捨ててしまうから。人は国に貢献すべきだと言いながら、人を見れば泥棒か強盗だと疑ってかかる。つまり人間が嫌い。一人残らず嫌い(…)。

アイドゥンは知的かつ経験豊かであるが故に、周りの人間の「愚かさ」に辟易しているのだと思う。こうすればお前の目的を果たせるのになぜしない、と「教養」に基づいた「誠実」で「公平」で「良心的」な批判をする。彼の批判は理論的に正しいように思える。しかし、その正しい批判はあくまでも理論上の話であり、地に足がついていないため実行が難しい。それゆえ、その批判を受けた者は「窒息」、つまり主張のあまりの正しさに動きを制限され、苦しくなる。最終的に無能力を恥じ入る、つまり「辱め」られるのだ。彼の正しく厳しい批判を逃れられる者はいない、とニハルは考える。「信じる」人も「信じない人」も、「年寄り」も「若者」も、全てが彼の批判の対象になるだろう、と。それゆえ、ニハルはアイドゥンを「人間が嫌い」と見なす。アイドゥンは理念的な正しさに溺れ、現実に対処できないのだ。

 このニハルの批判を、「うんうん、いるよねこういう奴」と頷きながら観ていた。で、僕にとって、そんなアイドゥンが最後どうなるのかが興味深かったのだ。こんな人物が無条件に肯定されるわけないだろう。改心するはずだが、どういう風に変わるのだろう? 変わるならばその契機は何か? こんなことを考えながら観ていた。

 結論を言えば、一応改心した。なぜ「一応」と書いたのかと言うと、アイドゥンは心中で反省し、心中でニハルに許しを乞うだけだから。確かにアイドゥンの内面は物語の開始時点から変化したのであるが、それが物語中盤に生じた二人の関係性の悪化を改善させていない。あくまでも「心中」の変化であるため、ニハルがそれを聞き、許したり許さなかったり、ができないのだ。冒頭から際限なく繰り返される主張の応酬は、最終盤に至っても調停されない。『雪の轍』は、それぞれの異なる共存不可能な主張が劇的な出来事を経て調停される物語ではなく、調停される可能性を仄めかす物語だと思う。このエンディングをどう見るか…。

 今のところ、エンディングに関しては特にコメントがない。どう評価したもんか。難しい。

 ちなみに、アイドゥンの内面の変化の契機は明示されていない。最も重要なのは動物のシーンだと思ってるが、こちらも省く。疲れた。馬と兎である。


メモ:リンクレイターの映画との類似点と相違点、『クラッシュ』との類似点と相違点

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